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2025-04-08

亡き母を想う

今日は亡き母の誕生日でした。
(写真は88歳の誕生日のもの)
生きていたら95歳になっていた。
母が亡くなって1年と4ヶ月。
もうそんなに経ったのか。

私の母は、昭和5年生まれ。
なのでもちろん戦争を体験しています。
奄美大島は沖縄のような戦場にはなっていないけど、それでもやはり空襲はあったようです。

母の人生を語ると「苦労の人」になると思う。
母は生まれつき、片目が見えませんでした。
片目だけ目が青かったのです。
だから幼い頃は、いじめにもあっていたみたいです。

今の時代なら、障害として申請もできるでしょうが、当時はそんな時代では無かった。
母は片目が見えない中で、普通の人と同じ暮らしをして来ました。
よく母が言っていた。
「子供たちが誰一人として、自分と同じ目にならなかった。それだけで幸せ。」と。

奄美大島という小さな島の、小さな集落で生まれ育った母。
当時は結婚も、親が決めていた時代。
同じ集落の父と結婚を決められます。

その父は、最初こそ仕事をしていたが、後に精神病を患い仕事をしなくなる。
そして酒に溺れて暴力を振るうようになり、別居状態になった。
私が幼い頃には、すでに家に父の姿は無かった。

今なら離婚でしょうが、当時のご時世に加えて、小さな島の小さな集落。
世間体もあり、母は何とか耐え凌いでいた。
当然家は超貧乏。
母は大島紬の織り子として、家で紬を織って私たち4人の子供を育てた。

小さな暗い家で、家族身を寄せ合って生きて来た。
でも、幼い頃の記憶は、決して暗い記憶ではない。
家族で笑い合っていた記憶が多いのです。
どんなに苦しい生活でも、笑いが絶えない家族だったのは、きっと母の愛情が注がれていたからだと思う。

だから私を含め、子供たちはみんな、高校を卒業したら、すぐに働いて家に仕送りをしていた。
それが当たり前だと思っていたし、母が楽になることが、子供としての当然の行いだと思っていた。
私たち子供が巣立ってからは、母の生活も少しは楽になり、父の暴力も無くなり、二人で生活をしていた。
晩年は旅行に行ったりして、少しは人生を楽しむことが出来たと思う。

父が亡くなってから、20年近く一人暮らしをしていた。
でも、すぐ近くに一番上の姉がいて、何かあれば姉が駆けつけてくれていたので、母も安心だったと思う。

母はもういないが、今の私がいるのは両親のおかげ。
父は正直、尊敬できない、どうしようもない男だったけど、それでも父の存在があって、私がいる。
だから父を否定することは無い。ある意味可哀想な人生だったとも思う。

母には感謝しかありません。
本当に苦しい生活の中で、ひたすら子供達のために頑張ってくれた人生でした。
その分、親孝行できたのだろうか?と、今でも自分自身に問いかけている。
もっともっと、できることがあったという気持ちはあるけど、もう母はいない。

「親が生きている内に親孝行しなさい」と、よく言われていました。
今となっては本当にその通りだなと思います。
まだ、親が健在の方、ぜひ今の内に親孝行してください。

母へ、誕生日おめでとう。
あなたがいたから、私がいる。
天国で楽しくやっていますか?
これからも、私たち家族のこと、見守ってくださいね。

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